介護職に転職して、丸六年が経った。ん〜我ながら良く続いたと思う。思えば辛い事の方が多かった。よくやりがいがある仕事だと言われるが、そんなことを言われても全く届かないくらい精神的にやられる。究極のサービス業と自分は思っている。殴られ、蹴られ、引っ掻かれながら、笑顔でその方々のペースに合わせる事がどれだけ魂削られるか。思ってみれば、認知症対応が多いホームを転々とした記憶。最後に行き着いたのが、我が社最高ブランドで、その支店の認知正フロアだった。イッツ・ア・スモール・ワールドにのせながら、この六年を振り返ってみたい。
2001年の12月1日。
記念すべき介護職のスタートだった。まだまだ熱い気持ちを持ちながら、その独特の空気にやられないよう、自分のペースで頑張っていた。それから2ヶ月半で、新規ホームに異動を命じられた。一番最初の異動である。そこが重度の利用者の巣窟で、重度の鬱病、重度の認知症、重度のパーキンソン、重度の糖尿病、大腿部骨折の徘徊者、数えたらきりがない重度な利用者に、とても要求度の高い家族。たった25名満床の小規模ホームなのに、介護六年の中で最も苦労するホームとなる。
毎日起こる救急対応。それだけ医療への依存度が高い利用者が多かったと言う事なのだが、毎日救急車が来る事で、周りの住民から「カルト宗教みたいなことをしてるのでは?」と不審に思われる。そこに重度の認知症利用者の対応で業務が回らなくなり、老人ホームとして全く機能していなかった。それだけ医療依存度が高いホームなのに、在宅ホームである事から看護師すら配置されてなかった事も問題であろう。
「お前達じゃ駄目だ」
烙印を押され、他ホームに異動になった。三ヶ月と言う期限付きだったが、この六年間で一番屈辱だった事は間違えない。手を抜いている訳じゃない。なのに、何もかもが空回りしていた。そこに来て、アルツハイマーを同時期に三名受け入れると言う事でパンクしたのだった。まあ自分を含め初心者が多かったのは大問題だった。しかしマネージメントとしては、それだけ重度利用者が多いホームに施設長も看護師も置かず、初心者の介護スタッフばかりを集めていたのも問題なのだ。
屈辱の数ヶ月を他ホームで過ごす。三ヶ月と言う期限だったが、会社の都合で2ヶ月になった。元のホームに戻るとき、サブリーダーになって欲しいと打診されそうになったので、最初に「お断りします」と釘を刺した。
三度目の異動は、2ヶ月研修して帰って来たと言う感じだ。それでも支店を異動した事は変わりない。この短期間で三度の異動は有り得ない数だろう。何事もない事を祈りながら、毎日を過ごす。問題は見えない所からやって来た。
それはヒゼンダニがもたらす疾病で、『疥癬』と言う病気だ。それが蔓延した。あっちこっちに飛び火し、二進も三進もいかなくなった。そこに重度の糖尿病利用者がノルウェー疥癬を病院から貰って来て、またもやパンク寸前。何もかもが空回りなまま、運命の2003年を迎える。
それだけ問題が多いと言う事は、何かバックアップが必要なのではないか?と言う結論に至ったようだ。施設長が配置された。嘘のように問題が改善されて行った。しかし、家族のそれまでの鬱憤が、その施設長1人の肩に乗っかった。潰れるのにそう時間はかからなかった。ある日突然、施設長は来なくなった。沢山のお金と共に。
ここで、自分の介護への思いは途切れたと認識している。たった2年で、自分の熱い想いは途切れたのだ。それだけ辛かったし大変だった。それ以上に、職員の入れ代わりの激しさが辛かったのだ。自分も大変だった。でも、利用者に顔を覚えられ、フレンドリーな関係でいられる事が新しく入って来たスタッフには憎らしく思えるらしく、苦労もしないで利用者と仲がいいのはけしからん的な風潮が見えだした。新体制と旧体制で派閥が生まれるようになる。新しい風は、とてもやる気と熱い想いに漲っているが、旧体制は燃え尽きている為に、この熱さが眩しくて仕方がない。その食い違いは自分をとことん追いつめた。自分が燃え尽きたタイミングと、新しい風が入って来たタイミングがこの時なのである。施設長が消え、明日から沖縄に行くからと夜勤明けの申し送りで新しい風と挨拶を交わした。それが、新と旧の入れ替わるタイミングだった。それが初沖縄だった。
沖縄に触れた瞬間、今までの辛さが見事に吸収されて行くのを感じた。随分ロングステイだったが、帰りの那覇空港に向かう途中、うちなーんちゅの車に追突される。ブレーキが利かなかったそうだ。今思うと、これがテーゲーと言う奴だと思うが、その時は全く意味が解らなかった。ブレーキが利かないで済む訳ないだろうと。それでも、沖縄の虫に刺された自分はここから沖縄病を発症する。本土に帰るが、2週間の安静を言い渡され、新しい風と、旧体制のワシの溝は深まった。
復帰しても頸椎ねんざで身体介護は出来ず、みんなからは白い目。なんでクビにならないのくらいの目線が向けられた。その次の年、スタッフ間のいざこざと、利用者の訴えが受容出来ずになって、『胃潰瘍』で入院する。またもや長期で仕事を休むハメになる。新しい風と、ワシの溝は深まるばかり。そこに来て祖母の死。またもや長期休暇。もう死んでくれと言わんばかりの目線。しかし、利用者の信用はワシに向けられると、新しい風はワシをイビルようになる。
女の園だなぁと感じたのはこの時だった。今まで男社会で働いていた。それこそ変な発言でもしよう物ならセクハラで訴えられてしまう様な世界。しかしこの時に、女のやらしさみたいな物を痛感させられた。目障りな物はつぶすと言わんばかりの毎日の嫌がらせ。男社会では、こう言う陰険な事はなかった。でも自分は、虐められてメソメソするタイプではない。一見そう言うタイプに見れがちだが、意外と内面は怖い人だったりする。ある日あまりに理不尽な訴えが多い事に思いきりキレてみた。2003年の沖縄前の申し送りで挨拶を交わした新しい風にだ。
新しい風は、サブリーダーに出世していた。権力を持たせた途端に自分をいびるようになった。面白いぐらい分かりやすかった。きっとこのホームに自分が居たらよくない結果を生むと判断し、この会社で初めて異動願いを出す。
そこからまた新しいホームに異動になったが、ここが今まで一番スタッフ間が悪かったホームだ。表と裏が全く解らない。表ではみんな仲良さそうにしているのに、裏に行くとお互いの悪口を吐いている。最初は恐ろしかったが、しばらくすると自分も同じ事をしていた。特養派と、ホーム派に派閥が出来ていたのだが、問題はホーム派にあったと思う。そんな問題もさることながら、ホームリーダーが変わってから新しい負の遺産を作る事になる。およそ2年の歳月かけて、今では修復不可能のホームになっている。しかし会社は全くその事に気がついていないし、気がついても蓋をしてしまっている。ここで2年頑張ったんだ。今改めてそう思う。よくやれたもんだ。これが4回目の異動である。
ある日異動を言い渡された。五回目の異動になる。それが冒頭に書いた我が社最高のブランドの認知正フロアへの移動。ここで出会ったフロアリーダーが、一番の驚きかもしれない。なぜならば、ここまで現場を分かっているリーダークラスの人を初めて見たからだ。それを宝に思う。そして自分は介護転職六周年を迎え、このフロアリーダーは、新天地へ異動となる。既に新しいフロアリーダーと被って業務の引き継ぎをしているようだ。そんな空気が、「ああまた、人が入れ替わって行くな」と、乾燥している中、加湿器が回っている様な感覚に陥った。そして12月に入り、七年目に突入して行く。
サラッと書いたが、それはもう辛い事が多かった六年だった。楽しい事もあったと言いたいが、やっぱり正直に辛かったと記しておきたい。
沢山の思いを胸に、今日もホッピーで一杯やるのだった。
しかし、つまみで買って来た砂肝の胡麻のピリ辛和えが、白髪ネギでなく普通のネギだった。それが悲しい六周年だった。

piccolo
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