今日もまた呟き

その名の通り、呟きメインのノンジャンルブログ

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訪問医療



整いました。piccoloです。

お陰様で、先月末に母は74歳の誕生日を迎えられました。誕生日までもたないかもと思っていた体調は、一応回復してる印象を受けます。高カロリー飲料の効能か、孫の笑顔か、少し元気になったようです。

先日「ブログをみたよ。訪問医療医を紹介しようか?」と投げかけてくれた人がいました。今の職場で、最初の年にお世話になった看護師さんでした。どうしたら良いのか全く先が見えない状態でしたので、渡りに船とお願いすることにしました。10年という時を経て、こうして医療福祉の目線で手を差し伸べてくれる人がいる事に感謝しかありません。母の状態を病院に掛け合ってくれ、今現在訪問医療のサービスを受ける事が出来ています。

一緒に働いている時は、重度の認知症利用者から暴言暴力を受け、「過鎮静にしてやろうか!」と、冗談を言える人でした。今の時代なら、サービス提供責任者や施設長に密告される事も考えられます。そう言ったブラックユーモアの境界線が、昨今かなり厳しくなって来ています。それがまだ緩い頃、共犯意識を共有出来る凄腕の看護師さんでした。現場では時に雑であっても、こうして困った人が居れば手を差し伸べてくれる。【福祉】とはなんぞやと、改めて思うのです。綺麗事ばかり並べても、いざとなったら自分は汚れない的な人が多い中、たかが個人のブログを見て手を差し伸べてくれた事に意識の高さを感じます。そして、改めて自分の意識の低さを呪います。もはや福祉の世界に属してはいけないとさえ感じるのです。そんなワシが、この様なサービスを受けられる事に日本中の皆様に感謝いたします。

4月28日に第一回目の往診が行われました。食べられない原因を探るべく、CT検査を受ける事になりました。これは家の近くの病院を探してくれました。クリニックの相談員さんがよくやってくれる方で、こうした手配を引き受けて下さるのです。同じ地域の訪問看護の手配もしてくれました。往診のサービスを受ける様になって、芋づる式と言ってはなんですが、全てが絡み合う様に上手く回り出しています。

今年の頭、年末から引いていた風邪のせいで咳が何カ月も止まりませんでした。次第に食欲が低下し、食べられない日が多くなりました。そして3月後半から全く食べられなくなり、いよいよ旅立ちの時が近いと思い今に至ります。身の回りの事は自立して出来ていましたが、今はやっとトイレに行けるぐらいの体力しかない様です。排泄の失敗も多くなり、そろそろ失禁パンツや尿取りパットの形状を検討したい所ですが、リハパンには拒否があり、パットもおそらく軽失禁の物しか受け付けないと思われます。どうしてこう頑固なのだろう?結局失禁した衣類を家族が洗う羽目になるのに、格好つけたって格好つかないのに。まるで綺麗に化粧はしていても、下半身丸出しで町を歩く老女の如く自分の恥部を隠しきれていない母。もう全てを投げ出してもいい頃だと思うのに。そんな葛藤の毎日でしたが、訪問看護が入る事で大分緩和されそうです。バイタルチェックはもちろん足浴や清拭、入浴介助のサービスも受けられるというのです。まさに渡りに船。看護師さんからのアドバイスならば、オムツ類の相談にも耳を貸してくれることに期待しています。

2017年の初夏に、訪問医療を月二回。訪問看護を週一回の割合で受ける事になりました。更新したデータが、クラウド上で書き換えられるように、数本の糸が1つに絡み合う事を実感しています。ターミナルの準備は整いました。あと何カ月生きられるか分かりませんが、悔いのない旅立ちをして欲しいと願っています。

改めて手を差し伸べてくれた看護師のKさんに、心から感謝します。

piccolo
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テルミールと言う高カロリー飲料



経験値です。piccoloです。

母が食べ物を口にしなくなって2週間ほど経過した頃、職場の利用者がこの飲み物で2年ぐらい生き抜いた事を思い出しました。

https://www.e-terumo.jp/テルミールミニとテルミールミニα/product/0/22/?cat=100001001&swrd=

テルミールと言う高カロリー飲料です。まさにこの詰め合わせセットを定期的に注文していたのでした。まさか自分の母にこれを飲ませる事になるとはその時は思いませんでしたが、その経験がヒントになり、現在は少し元気になっています。「薬だと思って1日1本でいいから飲んでみて」そう義務化して3日ほどした所で宅配ピザが食べたいと言い出しました。Mサイズのピザを3分の2ぐらいペロッと平らげました。それから約2週間テルミールとウイダーinゼリーを飲み続け、どうにか生きながらえています。

最初は義務として鼻をつまんで、呼吸を止めて飲んでいましたが、今は色んな味があるのね。抹茶が美味しかったわと、味も楽しんでいる様子。どうにか栄養失調で死ぬ事はしばらく無さそうです。ただ、根本の食欲低下の原因を探りたいと言うのが本音でありまして、消化器系や肺に癌が転移しているのか否か。その場合余命はどれくらいなのか。今は創造するしかありません。どうにか医療の力を借りられる態勢を整えておきたいのが本音なのですが、今のところどうにも進めないでいます。あと少ししたら、毅然と病院へ行って検査を受けさせたいと思っています。今まで抗がん剤治療をしていた病院が良いのか、近所の開業医の先生を頼れば良いのか、何が最善か分かりませんが、我が子と奥さんが帰宅した今、子育てが大変になる前に準備をしたいと思うのです。

何が最善なのか、それを決断出来なくなった母の代わりにワシが見極めなくてはならないのでしょう。まずは介護認定を取りたいと思っています。その同意は先日とったのですが、きっとその場になったら「そんな約束してないわよ」と言うのは容易く創造出来るのです。

一体何を優先させるべきなのか分からないまま時は過ぎていくのでした。

piccolo

抗がん剤をやめた日



新しい命の誕生のあとは…
piccoloです。

第二子が誕生して2週間が経ちました。その成長とは裏腹に、ワシのおかんは衰弱し始めています。去年の暮れに風邪をひき、なかなか咳が止まりませんでした。現在咳は少し落ち着きましたが、全く食事がとれません。1週間近く食事らしい食事を取れていません。転移した癌が消化器系を蝕んでいると思われ、そこから食欲低下に繋がっているのではないかと想像しています。昨年2016年の10月に、突如として抗がん剤治療をボイコットしてしまった母。その影響がここに来て症状として現れたのだと思われます。

抗がん剤をやめた理由…
副作用が辛かったようです。分かっていた事ですが、完治はしないと言われていて、その苦しみに耐える理由はあるのか?そう思ったに違いありません。その都度薬を変えて来ましたが、3種類のうちの最後の種類を始めた事で嘔吐するようになりました。手の痺れに加えて吐き気も催すようになり、それが自分の限界だと悟ったんだと思います。

完全にバックレでした。ある日突然無断で治療を休んだのでした。「あれ、病院は?」そう言うと、「もう治療やめたの」シレッと驚きの返答がありました。自分の事なので、やめるのは勝手ですが、1人で生活している訳ではありません。ワシや嫁、孫もいる空間で、堂々とターミナル宣言されたワシは、その気持ちを受容すると共に新たな決意をしなければなりませんでした。このまま抗がん剤治療を続けていれば、衰弱した時にそのまま治療していた病院に入院出来たでしょう。その死へのルーティンを拒まれた事で、新たな対策を考えねばならなかったのです。

2016年の10月に抗がん剤治療をやめてから、およそ半年が経過しました。2014年の6月に、全身に転移してるとインフォームドコンセントを受け、抗がん剤治療をしなければ半年。治療をして12ヶ月から24ヶ月と余命の宣告を受けました。とっくに余命は過ぎていますが、抗がん剤治療を始めてから副作用は強かったものの、全身に転移した癌は影も形もなくなっていたそうです。しかし命を伸ばして苦しむよりも、人間らしく生きる事を選択した母は、この時の恐怖を分かっていたつもりでも、実際には物凄く恐ろしかったのでしょう。毎日何かに怯えているようです。

先日自転車で買い物に出かけた母は、目眩と足の麻痺を感じ、買い物を断念したと言うエピソードがありました。家から数10メートルの所で引き返したそうですが、家の前で動けなくなってしまったのだとか。その羞恥心から1人で外出する事もなくなると思われ、悪循環は続く気がします。目眩や足の麻痺する感覚は、食事をしてない事から来ると思います。しかし母は、癌が進行してるから目眩がするんだ。足が動かないんだと人の話に耳を傾けません。むしろ癌が進行して出て来ている症状は、食欲低下だと思われるのです。「先ずは栄養をとって体力をつけよう。」そう助言しても聞く耳を持たないのです。piccolo家の悪しき因縁は、この無駄な頑固さです。祖父から受け継がれているであろう頑なな意地。歳をとればとるほどに強くなって行くようです。

今月の30日に74歳になる母。もしかすると誕生日を迎えられないかもしれません。どうにか病院へ連れ出し、点滴治療で体力を回復させて欲しいのですが、彼女の頭には病院イコール癌の治療と、偏った考えしか持っておらず、自分一人の問題として頑なに通院を拒否します。「冷静に」と自分に言い聞かせるワシですが、幼児退行した母をどうしても軽蔑してしまいます。ワシは母に、中途半端はするなと、時に暴力までふるわれて物事をやり通す事をすり込まれて来たのに、抗がん剤治療は中途半端にやめてしまうんだと、憤りさえ覚えました。以前母に「中途半端はダメだと俺に教えて来たよね?あなたがしてる事は中途半端な事だよ。やめるなら、しっかりとやめる意思を先生に伝えなくちゃダメなんじゃないかな?」と話た事がありました。しかしバツが悪くなるとシレッと自分の部屋に消えて行くのです。時に駄々をこねる子供の様でもあり、女手一つでワシを育ててくれた強い外見とは裏腹に、内見はガラスの様に脆かったのでした。



ここ数週間でかなり痩せました。写真は去年夏の物です。さらに一回り小さくなった気がします。介護施設で働いているワシは、老衰でご逝去する方を何十人も見て来ました。決まって食事が取れなくなります。中には何も食べずに1ヶ月以上生きる人もいましたが、大抵数週間で体力が尽きます。今まさに、自分の肉親がその状態に陥り、いよいよラストステージに入ったのだと複雑な思いを噛み締めるのです。

生と死。喜びと悲しみ。いつも同じ年にやって来る。これも何かの因縁なのであろう。

piccolo

入院から1年

命の期限が過ぎました。piccoloです。



去年の今日、「お母様が入院されました。」と、病院から連絡貰った日だ。病名は、腸閉塞。そこまでしか情報はなく、夜勤に出発したんだ。明けで病院に行くと、母は眠っていて、しばらくして目覚めると、「来てくれたんだ。」そう言って体を起こした。母の口から大腸に癌があることから腸閉塞を起こしていることを聞いた。部位は盲腸。ネットで調べると、盲腸癌の殆どが自覚症状がなく、腸閉塞などの症状が出た時には全身に転移していることが殆どであると書いてあった。あの日の鬱蒼とした気持ちを思い出す。病院と言う空間で、死の病を宣告されるのが、どれだけ辛いのかを想像すると、複雑な気持ちだったのだ。我が子の笑顔が切なかった。

子供が生まれて、1番喜んだのはうちの母かもしれない。皆が我が子の誕生を祝福してくれたが、この子の誕生を待っていたのは、母かもしれない。もしかしたら、子供の誕生で、親子の確執が修復出来るかもしれない。そうも思っていた。しかし…
死の病に犯されていたのだった。

その日から1年経った。徐々に衰弱はしているが、至って元気だ。全ては孫の存在が彼女に生きる勇気を与えている。去年を振り返り、改めて我が子の存在の大きさに頭が下がる。

願うは苦しまずに逝って欲しい事。ワシの願いはそこに尽きるのである。

piccolo

過去日記
http://sase.blog12.fc2.com/blog-category-43.html

余命



命の期限が近づいて来ました。piccoloです。

母が病に倒れて、間も無く1年が経とうとしています。時の流れは無常にも早く、医者から宣告されたその時が迫っているのです。

昨日、俳優の今井雅之さんが母と同じ病でご逝去されました。母と同じ大腸がんで、母と同じステージ4で、母と同じく癌の部分を切り裂いた手術をし、母と同じく抗がん剤治療をしていた、あの今井雅之さんが昨晩亡くなられました。

間も無く母の命の期限が終わります。今井雅之さんのニュースは、とてもショックでしたが、母は元気です。痩せていた体も、それなりにふくよかになり、抗がん剤治療の副作用に苦しみながらも、骨に転移したような痛みの訴えはありません。今井雅之さんが亡くなる前の日に、母の抗がん剤治療でした。その数日前に検査をした結果が出る日でもありました。癌は小さくなっていると言う結果でした。肺に転移した数個の癌はそのままあるものの、大きくもなっていないし、他の転移は見受けられていないそうです。その結果をとても嬉しそうに受け取っていた母は、一転して今日の様子は真逆でした。想像するに、同じ病の有名人が朽ち果てる姿に死の恐怖を感じたのだと思います。

経過は良好なのにも関わらず、情報に怯える母。他人事で申し訳ないのですが、もっとおおらかに生きて欲しいと思います。ワシの血縁関係と、強制的に共に暮らさなくてはならない奥さんには申し訳ないことなのですが、確実に死に近づいているこの命のわがままを、どうか見逃してやって欲しいと祈るのです。

母の経過が良い事の理由に、孫の存在があるでしょう。孫が生きる希望を与えてくれる反面、孫の成長を見届けられない虚しさに憤っている様子です。

何はともあれ、母は元気です。孫が彼女に癒しと笑いを与えてくれています。この小さな命が、人の心を支えてくれている。我が子にも、奥さんにも、一生頭が上がらない気持ちです。

奥さんを大事に。
我が子を大事に。
母を大事に。

今は、それだけを祈るのです。余命と言う名の命の期限。母は、その期限を糞食らえとばかりにパンクに生きています。その中に、不安と希望の狭間に揺れ動いていますが、孫の成長を見届けたいと言う願いは、母に生きる希望を与えています。世代を超えた繋がりを、唸り声を上げながら盲信するのでした。

piccolo

治療と引っ越し




取り敢えず安堵。piccoioです。

前回の受診で、母は抗がん剤治療を行わない旨を決めていました。先生は、在宅訪問してくれる医者を探せと宿題を出して納得してくれました。ワシは、母の考えを尊重しようと決めました。そしてこの日、母の考えに変化が現れていました。先生の「どうですか、地元のクリニカルは診てくれそうですか?」の質問に、母は開口一番「私抗がん剤治療します」と言いました。ここ数週間で、母に変化があった様です。

入院する前に通っていた泌尿器科の先生のインフォームドコンセントが良かった様です。色々なリスクを説明され、なぜ死に急ぐ様なことをするのかと言われたらしく、抗がん剤治療に対するイメージの相違を感じ取ったのだと思います。何はともあれ、この日から母が明るくなったことは間違いありません。何か吹っ切れたと言う感じがしました。同じ事を大学病院でも説明されていたとは思いますが、大きな病院のシステムの中の説明と、地域に密着した診療所の説明では、患者の安心感が違うんだろうと想像します。もう一つ想像するのは、抗がん剤治療をする大義が欲しかったのかもしれないと言うこと。綺麗に散りたかったけど、色々な生に対する欲求が出たのではないかと言うことです。その理由に孫の存在があるかもしれません。とにかく孫を溺愛する姿は、喜びで溢れているのです。孫が泣けば全身で心配し、孫が笑えば母も腹から笑うのです。この小さな命が、バーバを大きく支えていることに、繋がることの意味の深さを感じるのです。

8月早々に1度入院をし、点滴をするポートを埋め込みます。5日ほどで退院出来る事も、予想外に嬉しかった様です。あとは、2週間おきに通院して抗がん剤治療を続けて行きます。母は、その治療はいつまで続けるのかと質問しました。そのゴールは、癌がなくなるまでと説明され、当たり前の事なのですが、抗がん剤治療の意味を理解した様でした。我々には、そのゴール地点に立つことは難しいのですが、治療で少し延命出来る。きっと生かされる事が嫌だったのだと思いますが、時間が母に考えを変えさせたのだと思います。生かされるのではなく、生きるのだと。その時間で色々な欲求を満たそうと、改めてこれからを親子で見つめて来ました。

引越しに難色を示していた母ですが、今日の受診で前向きになってくれました。何を捨て、何を用意し、最低限この荷物だけは持って行くと、引っ越しのシュミレーションをしています。家の間取りを質問して来て、変な間取りを選んでないかと偉そうです。50平米あると言うと、そんなに広いのか?と。ワシが説明して来たことは、きっと絶望に押し潰されて、耳に入って来なかったのだと思います。同居はしたいけど、まるで自由のない飼い殺しの生活が始まると捉えていたのかもしれません。きっと母の中でドナドナが鳴っていのでしょう。

死に向かっているのに、安堵している親子がここに居ます。何を納得し、何を選択するか。その整理をつけることが、この病気の考え方なのだと思います。突然入院したと連絡が来た日から、かなり時間が経過しました。最初は病気になった事を頭では解っていたつもりだったけど、納得はしていなかったのでしょう。まるで悪天候の様にジメジメ考えて、出口のないトンネルに迷い込んだかのようでした。しかしその出口が見えた気がしたのです。決して良い出口ではないかもしれませんが、それを納得する事が大きいのです。

梅雨が明け、暑い日が続きます。まるで我々の心の様に、あのジメジメした日に別れを告げます。夏を楽しもう。冬を超えよう。そして春が来る。その中に生を探そう。奥さんに、我が子に、親戚に、友人に、その繋がり全てに感謝します。


piccoio

母の決意

退院して一週間、受診して来ました。母の決意を想像はしていましたが、先生に改めて抗がん剤治療は行いたくない旨を語っていました。



余命は半年。平均して8ヶ月と言われましたが、今年もつかは分かりません。苦しい治療を一切合切拒否をして、人間らしく死にたいとはいかにも母らしいと感じます。ワシも生かされる母の姿は見たくありません。彼女がそう決めたのであるならば、その意思を尊重したいと思っています。

問題は、今後衰弱した時に在宅治療をしてくれるDr.がいるかどうか。まずこの連携を取るのが絶対条件であります。やはり在宅治療は無理だとなった時に、病院に来ても受け入れられない事が予想出来ます。今のうちにその考えを受け入れ、フォローしてくれる先生を探すのが、担当医からの宿題でした。

正直ここ一ヶ月母と過ごして、改めて真逆のキャラクターを感じました。のんびりマイペースなワシとは逆に、なんでも段取りを組んで、せかせかと物事を運ぶ母。実家に泊まり込んだ数日が、ちょっとストレスでありました。何をするのにも母からあーしろ、こーしろ、と指示があるのです。自分の手が届かないから手を差し伸べるのは苦ではありませんが、自分の日常を否定されるのは苦痛以外の何物でもありません。今後同居を提案して行きますが、上手くやれるか不安であると言う、なんともお粗末な考えのワシ。自分の産みの親、育ての親の命の期限が見えているにも関わらず自分のバランスを考える親不孝なワシ。受診を終え、母の決意を目の当たりし、怒涛の一ヶ月を振り返りながら、これから始まる新たな闘病生活に睨みをきかせるのでした。

piccolo

無事退院




今日、母が無事退院しました。取り敢えずはホッとしております。これから新たな治療が始まりますが、1度退院してリセットさせてくれた病院の対応に感謝しています。

実家に帰って来て、もうここに来られることはないかもと思った数週間前を思い出します。命の期限をつきつけられたものの、取り敢えずはホッとする自分がいるのです。

piccolo

入院したくない




現在、術後の回復に務めている母ですが、退院後は近くの病院で通いで治療出来ると思っていたようです。先生は、最初の抗がん剤治療は入院して行なった方が良いでしょうと言っていました。

またこの病院か…
あの先生が紹介状を書かなければ。そんな言葉が飛び出したことに、家から遠い場所にあることがストレスであることが分かりました。入院してしまえば家から遠いも近いもないのでしょうが、通いとなると母の足では無理かとも思います。まだその段階ではないのだけれど、すべての段取り取らないと前に進めない母は、次の次のステップに異論を唱えるのでした。

母の好きなようにして欲しいと思います。最後くらい思いっきりワガママを言えばいい。昨日、帰り際にありがとうと言われた。息子の行動を認めたことがないのに、入院して自由が効かない事に相当参ってるんだと感じた。癌で親を亡くされた方から、言えるうちに沢山ありがとうと言った方が良いとアドバイスされました。お礼を言わなきゃいけないのは、ワシの方なのに。

今日は言葉にして言おう。ありがとうの言葉を。

piccolo

命の期限

無事手術が終了しました。piccoloです。



手術前のインフォームドコンセント通りの手術でした。現在の腸閉塞の原因である盲腸部分に出来た腫瘍を取り除くために大腸の1部を切除して、腫瘍のない部分と繋ぎ合わせると言う手術です。



手術は上手く行きました。出血もなく輸血を行うこともありませんでした。ただ、手術してみなければ分からないとされていた腹膜への転移が、広範囲に多数認められたのです。予想以上に悪い状態であったと説明を受けました。





これも術前の説明通り、体力の回復を待ってから抗がん剤治療を行って行きます。もしも抗がん剤治療しなかった場合、今はお母様がいらっしゃらないのではっきりお伝えしますが、命の期限は半年もつかと言ったところ。抗がん剤治療をしても、癌が良くなるかと言うと、腹膜にこれだけ転移していると正直難しい。進行を遅らせるぐらいしか効果が期待できないかもしれない。統計的に見て2年生きられるかというのが、お母様の状態です。ただ、現在の抗がん剤はよくもなってきているし、色々な種類もあるので、それはお母様と相談しながら決めて行きましょうとのことでした。

正に悶々と考えていた事がドンピシャで自分に襲いかかってきたのですが、ショックは少なく、むしろ言われてスッキリした感さえありました。同席してくれた奥さんには申し訳なかったけど、包み隠さず話して下さった事に感謝しています。切り取った臓器も見せてもらいましたが、ここが癌だと言われても素人のワシには全く見分けがつかなかった。その硬くなった部分を複雑に眺めるのでした。なぜこいつが生まれて来るのだろう、人の体を蝕み、やがて命を奪う。そうすれば自分も朽ち果ててしまうであろうに、その病気の元を複雑に眺めていました。不謹慎な話ですが、切り取った臓器は完全にホルモンで、一口大にきってあれば焼肉店で出てきそうだと思いました。自分の心はそれぐらい冷静で、母を蝕む病原体を見ても取り乱すことはありませんでした。残された時間、しっかり母と向き合おうと決意したのです。

これからは生きられる時間ではなく、生きられる質を重視したいと思っています。しっかりとこの命の期限についても母に伝えて行こうと思っています。術後、意識がもうろうとする中で、ワシと奥さんに目で大丈夫と訴える母を見て、この人はロックだったと改めてリスペクトしました。人に辛い所を見せない、そこは徹底していたように思います。故に病気になった時のその気丈さが切なかったですが、それが母なのでしっかりと受容して行きたいと思います。声かけるとしっかりと返答がありました。「どう、痛くない?」頷いた後に「とっても良い夢を見てた。とっても心地のいい夢だったのに。」麻酔で深い眠りに入っていた母は、とても良い夢を見ていたそうです。麻酔から覚めさせられた時に、なんで起こすの?とさえ思ったそうです。どんな夢かは聞かなかったけど、幸せそうなその表情を見ていっその事そのまま旅立てたら楽だろうにとさえ思ったほど。この時の表情を忘れません。この表情で旅立たせて上げる事が、ワシの仕事。後少しの時間、共に時間を共有し合い、納得して旅だって行って欲しいと思います。特に念願だった孫との時間を沢山共有してもらいたい。体力の在るうちに、沢山抱っこしてもらいたいと思っています。

手術後、母の回復の具合を見て一度退院します。検査に来てそのまま入院でしたからね、家の事もあるでしょうとDr.に言われ、その時間をくれたんだと悟りました。今、正直毎日色々な事を考えていて悶々としていましたが、術後のインフォームドコンセントでスッキリした感があります。母が倒れたと言う連絡に驚きましたが、今は最後の時間をくれた事に感謝しています。これから自分も苦しいと思う場面が沢山訪れるでしょうが、さよならも言わずに居なくなってしまっていたら、きっとこの悶々は解決出来ずに一生心に残る事になったでしょうから。

まずは手術が成功し、おそらく回復も順調であろう事ご報告します。

piccolo

インフォームドコンセント




思ってた通り転移してました。piccoloです。

盲腸癌で検索すれば、おおよその情報は出てきます。改めてDr.からのインフォームドコンセントを受けてきましたが、癌はかなり進行しているようです。リンパ、肺、おそらく肝臓も。全身に転移してると言えるでしょう。その言葉が重くのしかかるのです。まずは手術、その後は抗がん剤治療を行って行きます。余命は宣告されませんでしたが、生存率は低そうです。

母のショックを想像すると、心が痛かった。今は包み隠さず病状を伝える時代なんだなぁ。ここ数日、悶々としていたワシは、今日の話を聞いてむしろスッキリした感じがしている。インターネットを見ながら病状を想像することが愚かな事だと感じました。病状は、想像よりも少し重たかったけど、とにかく痛み無く、苦しみ無く、孫と共に生き抜いて欲しい。

たった数日だけど、少し疲れました。まだこれからなのに、先が思いやられます。幼少の頃からお母さんにはpiccolo君しかいないから大変だね。と言われ続けて来たことを思い、今まさにそれが現実の物になっています。有難い事にそう言われて来たけど、自分にはその状況を支えてくれる伴侶に恵まれました。そして子供にも。ギリギリだったけど、孫を見せられて喜んでもらえて良かったと思っています。

子供が産まれた喜び、子の笑顔に癒しをいただいています。でも母の病の悲しみが、とても切ない。嬉しいけど、悲しいが切ない。

piccolo

母の病


まさか自分の親が…
piccoloです。




母の入院している病院で説明を受けて来ました。現在、腸閉塞の治療をしているのですが、その原因が癌であると言うのです。大腸癌の一種で、盲腸部分に出来る珍しい癌だそうです。その癌が、腸を圧迫して腸閉塞を起こしているので、今は鼻から管を入れて老廃物を外に出しています。もう少し遅ければお腹の中で破裂していたであろうと説明を受けました。祖父も祖母も腸閉塞から腹膜炎を起こした事があったので、母も腹膜炎であると想像していましたが、まさか癌とは。一ヶ月前に婦人科系の癌の疑いは全くないと検査結果が出たばかりだったし、孫が産まれて鬱っぽい症状も軽減してたのに…

取り乱す様なパニックにはなりませんが、なぜうちの親が?と、神様を呪いたくなりました。毎日真面目に働いて、なんの欲も欲して来なかった母。癌になるならもっと悪い奴にしてよ。と、子供の様な事を思いました。しかしこの現実を受け止めなければなりません。頭の中で何度も色々な思考が入れ替わります。病気と共に生き、残りの生活を有意義な物にして上げたい。そう言った受容した思考が巡る時もあれば、誤診で癌ではありませんでした。すいませんと、病院と笑い話をしている妄想が巡る時もあります。インフォームドコンセントから数日経った今、嘘であって欲しいけど、現実を受け止めざるを得ない事実を自分に言い聞かせている状態です。

喧嘩をするように家を出て、15年ほどが経つだろうか?その間、殆ど放ったらかしだった親子関係。晩年は鬱っぽく、引きこもりの様な症状もあった気がする。2006年の誕生日に真鶴のうに清に魚を食べに連れ出した時に大喜びしてくれた時が、母の笑顔を見た最後だったかもしれない。そんな母が、孫が出来た事に恥も顧みず大喜びしてくれました。これから少しずつ親子関係を修復し、孫と共に暮らそうと、その覚悟を奥さんと話し合っていた矢先に病院から「お母様が入院されました。」と言う一本の電話。まるでドラマじゃないか。時々一点見つめをしているワシ。壁が破られ、どっきりカメラの札を掲げた野呂さんが登場するシーンを思い浮かべてはニヤニヤして、その虚しさにまた一点見つめをする。少しずつ現実を受け入れて、前に進むしかない。仕事、子育て、課題、毎日当たり前の様に過ごそう。そして出来るだけ母との時間を大切にしよう。そう心に誓うのです。

闘いは始まったばかりです。

piccolo

母よ



初夏の晴れた昼下がり
私は生まれたと聞きました
母親の喜び様は
大変だったと聞きました

「ただ真っ直ぐ信じる道を歩んで欲しい」
と願いこめて
悩み抜いたすえにこの名を
私に付けたと聞きました

我が家はあの頃から
やはり裕福な方ではなく
友達のオモチャや自転車を
羨ましがってばかり
少し困った様な顔で
『ごめんね』と
繰り返す母親のとなりで
いつまでもいつまでも
泣いたのを覚えてます

アンマーよ
アナタは私の全てを許し
全てを信じ全てを包込んで
惜しみもせずに何もかもを
私の上に注ぎ続けてきたのに

アンマーよ
私はそれでも気付かずに
思いのままに過ごして来たのでした

「強さ」の意味をはき違えて
ケンカや悪さばかりをくり返し
勝手気ままに遊びまわる
本当にロクでもない私が
真夜中の静けさの中
忍び足で家に帰ったときも
狭い食卓の上には
茶碗が並べられていました

自分の弱さに目を背け
言い訳やゴタクを並べ
何もせずにただ毎日を
だらだらと過ごし続け
浴びる程に飲んだ私が
明け方眠りに落ちる頃
まだ薄暗い朝の街へ
母は出て行くのでした

アンマーよ
私はアナタに言ってはいけない
決して口にしてはいけない言葉を
加減もせずに投げつけては
アナタの心を踏みにじったのに

アンマーよ
アナタはそれでも変わることなく
私を愛してくれました

木漏れ日の様なぬくもりで
深い海のような優しさで
全部 全部 私の全てを包込んだ
アナタの背中に員われながら
眺めた八重瀬岳の夕日は
今日も変わらず
茜色に街を染める Yeah

度が過ぎる程の頑固さも
わがままも卑怯な嘘もすべて
すべてを包込むような
愛がそこにはありました
アナタのもとに
生まれ落ちたことは
こんなにも幸せだった
今頃ようやく気付きました
こんな馬鹿な私だから

春先の穏やかな朝に
新しい命が生まれました
アナタの様によく笑う
宝石みたいな女の子
「優しさの中に凛々しさを秘めた人」
になるようにと願い
アナタの一番好きな
あの花の名前を付けました

母親が入院


「お母様が入院されました。」piccoloです。

今日、夜勤前に病院から電話がありまして、唐突に上記を伝えられました。早急に来院して欲しいと言われましたが、夜勤なので無理だと伝えると、奥様でも良いのでと言われます。子供がまだ小さいのでそれも難しいと伝えると、診療方針の話もあるらしく、電話で方針に納得して欲しいので、検査が終わったらDr.から再度連絡を入れますとの事でした。

しかし…
連絡はなく。まあ明日来院出来る旨を伝えてあるので、急がなくても大丈夫と判断したのであると解釈しています。きっと緊急性がなかったのでしょう。しかし病院から電話なんて初めての経験です。今は家族の了解を取らないと手術やら何やらも出来ないのだと想像します。電話でも良いから先生と話をして欲しいと言われ、癌を疑いましたがハッキリとした事は明日にならないと解らない状況です。

土曜日に孫を連れて行くアポイントを取っていたのですが、月曜日に大腸の検査があるので体調を整えたいと言われたのがそもそもの始まりでした。おそらく月曜日の検査で大きな病院を紹介され、今日検査したらこれはヤバいですとなったのだと思われる。

この夜勤は別のプレッシャーがかかっている。大丈夫なのかそうでないのか、意外にこの邪念が自分に重たく乗りかかる。兎に角この夜勤を超え、母の入院する病院へ行かなくては。大した事なければいいのだが。不安に思わない様にすればするほど、不安は大きくなって行くのであります。


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