今日もまた呟き

その名の通り、呟きメインのノンジャンルブログ

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緩和病棟その13



部屋が変わりました。piccoloです。

入院して約二週間、部屋が移動になりました。どちらも差額ベッド代金は無料のお部屋なのですが、今まではナースステーションの前の部屋でした。それくらい緊急性がある患者だったと想像します。病状が落ち着いた今、改めて重病の方が入院して来るので、部屋を移動してはもらえないかと、病院から相談されたのでした。

我々家族は従うと答え、全ては母の意思に任せました。意外と病室に慣れた感があったので、環境が変わる事を拒むかもしれないと思ったのですが、すんなりと母も了解したようでした。しかし、部屋を移ってからの母の落ち込みはかなりの物で、私は用がなくなったので隅に追いやられたんだと、マイナス発言が続いていました。今までの病室がよほど高価な部屋で、実は有料部屋だったのに緊急性を感じた病院が無料で提供してくれたのかとも考えました。しかし、新しい母の病室に行ってみると、以前の部屋と全く変わりない間取りで、何が不満なのか全く理解出来ませんでしたが、聞けばドアを開けた時に壁なのが嫌なのだとか。何か圧迫感みたいな物を感じてるようでした。

最近病院内のカフェに行くことが母の楽しみでありまして、今日も孫と一緒にランチをして来ました。



ワシはあまり美味くないのでとっとと病院を後にして美味い飯を食いたいと言うのが本音ではありますが、母のお見舞いと堪えて親孝行するのでした。

お見舞いから帰ると、嫁の調子があまり良くない様子。久しぶりに息子君と公園に行きました。



相変わらず公園の遊具では遊ばずに公園の周りを走り回る変わった息子君。かなりの時間をマラソンに費やし、彼のリクエストで四文屋に寄りました。



「父ちゃんやきとり食ってこ。」が、彼のデフォルトのようで、この日は生ビールとグレープフルーツジュースで乾杯しました。

仕事とお見舞いの両立が、少しお疲れなpiccolo家なのです。

piccolo
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緩和病棟その12

夜勤前に病院に寄りました。piccoloです。



区から届いたパット、タクアンやラッキョウをタッパに詰めてお見舞いに行きました。今日は入院費が清算される日、支払いの為に会計に行きました。



差額ベッド代金は無料ですが、1日400円のテレビ視聴代、1日3食提供される食事代などを含めると、1ヶ月で80,920円。正直自分の経済力では厳しい金額ではありますが、差額ベッド代金が無料の部屋に入れた事と、健康保険制度に心から感謝するのです。

親孝行は出来ませんでしたが、せめて最後はワシが責任を持たなくてはと思うのです。

piccolo

緩和病棟その11



一輪挿しです。piccoloです。

母からリクエストされていました、一輪挿しを届けて来ました。花が好きな母は、部屋に一輪挿しがあればと嫁にリクエストした様です。嫁は一輪挿しを購入し、ワシに託しました。花はワシに任せると。で、花屋のお母さんに一輪挿しを見せて「これに合う花下さい」とお願いし、冒頭の花が選ばれた訳です。

まあ納得した様で何よりでした。次回来る時は、
『梅干し』『らっきょう』『たくあん』『しば漬け』が欲しいとリクエストされ、持参する予定。米が喉を通らなくなっているらしく、生きる為にご飯のお供が欲しいとの事でした。最後まで命を捨てず生きようとする姿勢にリスペクトし、病院をあとにしました。



piccolo

緩和病棟その10



11月はお天気が良いです。piccoloです。

今日から遅番続きです。遅番終わりでお見舞いに行きました。20時45分に病院に行ったら、オカン寝てました。そそくさと病院を後にするのでした。

piccolo

緩和病棟その9



良いお天気でした。piccoloです。

午前中に娘ちゃんを耳鼻科に連れていってから、お見舞いに行こうと話していました。しかしいつもは1時間と寝ない娘ちゃん、こんな時に限ってよく寝てくれます。

12時を過ぎたので、飯を食ってから行くことになりました。夫婦でのラーメンは久しぶり、病院に行く途中にある【真白】さんに寄りました。

最近のラーメンには玉ねぎが生で入ってるんすね。臭い決定やないすか。食べて思ったけど、こんなに玉ねぎいらない!スープは最後まで飲み干したいけど、ネギが残るから飲み干せない。そこ考えて!スープも麺も美味いのに、なんだか惜しい感いっぱいで病院に向かいます。

おばさんが居てビックリしました。母の妹です。母としては息子、嫁、孫のコラボにおそらくは嬉しかったんじゃないかと想像します。声にも張りがありました。入院してから社会との接点が無いことから、人の来訪は嬉しいようです。ただ、すぐに疲れてしまうので、お見舞いに来てくれた方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかしなんだか、入院してから逆に元気だと言う気がするのは三食しっかり食べているせいなのか?お見舞いに来る人全てがビックリしています。ただ、お腹の張りは酷く、叔母も触ったらゴリゴリに硬かったと言っていました。腹水か、癌か、やはりお腹の中に増殖しているようです。

家では入らなかったお風呂も、病院では週に二回ぐらいは入っているようです。きっと定時で薬を飲む事が、体の負荷を軽くすると想像します。自分でコントロールしてるからと、処方された薬を殆ど内服していなかった母。きっと薬の種類が分からなくなっていたのかな?

入院して半月が経ちました。雨の多かった10月でしたが、晴れた空を眺めると、少しだけホッとするのでした。



piccolo

緩和病棟その8



夜勤明けの晴天です。piccoloです。

今日は仮眠した後、息子君を保育園に迎えに行き、そのまま婆ちゃんの見舞いに付き合ってもらいました。少し具合が悪いのか、肩呼吸をして椅子に座る母の姿がありました。それでも医者から「どうですか?」と問われれば、「何も変わりありません」と答えてるのだろうなと想像するのです。薬を選択するのは母の自由、ならば家族は苦しそうでも見守るしかないじゃありませんか。

婆ちゃんの足元で将棋の真似事をする息子君、悪さばかりするので、婆ちゃんは少し辛そうでした。今は息子よりも娘の方が可愛いようです。

少し遅れて娘ちゃんが到着しました。やはり嬉しそうです。



腰も座ってきて、お座りが上手になりました。しばらく婆ちゃんの膝の上に居ましたが、すぐに疲れてしまうようですね。でも、こうしてそばに孫たちがいる事が嬉しそうです。もう一緒に暮らすことは出来ないけれど、ギリギリまで共に生活をしました。残りの人生は、苦しみのない人生を願うワシなのです。

病院では専ら日本地図のパズルに夢中の息子君。


パズルが好きとは、なかなかの秀才か。まずないな(笑)

お見舞いの帰りには、やはりワシの行きつけの居酒屋【青鋼】でご飯を食べました。

店主と女将の息子さんが、うちの子とタメでありまして、オープンしたのが丁度うちの子が生まれた時期という事もあり、よく行くようになりました。キッズスペースがあり、子連れでも楽しめるお店なのが特徴の一つでもあります。うちの子は、食べる事を忘れ、ひたすらオモチャの山で遊ぶのでした。



親の勝手で連れ回した結果、この夜から熱発する我が子なのでした。

piccolo

緩和病棟その6



2017年10月24日、天気は曇りです。piccoloです。

入院して一週間、今日は先生からのお話がありました。インフォームドコンセントです。孫のお見舞いに、やはり嬉しそうな母の姿がありした。

食事は半量希望で8割ほど食べているそうで、三食規則正しく食べられている様子。入院して最初の3日ぐらいは、ナースコールがあってトイレに行ったと言われました。お通じもコンスタントに見られているようで、今のところ急な様子変化はなさそうです。今の苦痛は、お腹の張りから横隔膜を圧迫しているであろう呼吸苦だそうで、この苦痛を今後本人と相談しながら麻薬で和らげていくとの話でした。

本来ならひどい痛みであると、人からは言われるのですが、母は全く自覚症状がなさそうです。我慢というよりも、本当に自覚症状がない感じを受けます。でも、苦しみがあるのなら積極的に麻薬を使って欲しいとワシは願うのです。最後の最後ぐらい、恍惚感いっぱいで天国に旅立って欲しいと思うのです。

一度帰宅し、夕方からはお兄ちゃんと一緒にお見舞いに行きました。



久しぶりに上の子と時間を共にするなと言う印象を受けます。やっと、一緒に遊べるようになったかな。まあそのうち遊んでもらうようになるんでしょうな。母を喜ばせるつもりでお見舞いに行ったけど、ワシが息子に癒されたと言うオチでした。

piccolo

緩和病棟その5



夜勤明けです。piccoloです。

今日も雨でした。小雨の降る中、仕事帰りに病院へ寄りました。母からは郵便局から二万円おろしておいてくれと頼まれます。受容して了解するフリをしましたが、貯金はゼロです。ワシの財布から後で渡すとします。

買い物したいと言われ、売店まで行きました。入院してから活動的と言うか、風呂には入る、買い物には行くで、どうしちゃったんどろうと思うことが度々あります。もしかしたら病室での生活にストレスが溜まっているのかもしれません。訪問看護から、明日急変もあり得ると言われたことに疑問を持つ自分がいます。

滞在時間30分ほどでしょうか。会話もなく、買い物に行っただけでした。そんな今日は入院5日目です。

piccolo

緩和病棟その4



雨のち曇りでした。piccoloです。

夜勤入りで病院に寄りました。今日も風呂に入れたそうです。家にいる時は一カ月近く入らない事がザラだったのに、週に2回は入っている計算です。驚きです。認知症の症状もなく、ホッと胸をなでおろしています。今まで辛いのに在宅で頑張っていたのかもしれません。

以前の職場の店主達がお見舞いに来てくれたと、話を聞きました。共に働いていた、母よりも若い方が同じく癌であると聞き、驚きを隠せませんでした。母よりもやせ細ってしまったのだとか。

お見舞いに行っても特に会話はなく、15分程度で退散しました。きっと10分でも20分でも、顔を出す事が大事であるんだと信じています。

piccolo

緩和病棟その3



久しぶりにお天気が良かったですね。入院3日目。piccoloです。

今日の仕事は早番で、16時半に勤務終了になるため、家族でお見舞いに行きました。やはり孫の登場に、張りのある声で出迎える母の姿を見て、何も親孝をせずに好き勝手生きて来たけど、孫の顔を見せられた事に少しだけ安堵するのでした。しかし30分もすると疲れの表情を見せ始めます。それでも気丈に振る舞っていますが、悪さし放題のお兄ちゃんに声を荒げるシーンも見受けられ、日常の空気感が生まれる事に、ホスピスの意義を痛感するのでした。積極的な治療は行わず、ゆっくり下降して行く命を、共に歩むというスタンス。こうして日常に近いシーンを演出して行ければとも思いますが、そんな事をしなくても孫が「ばあちゃーん」と会いに行くのが一番良いのかと思っています。

帰りには家族で地元の居酒屋でご飯を食べました。





奥さんも今日は家事をサボらせて欲しいと、家族で美味しく頂いたのでした。仕事、子育て、病院。その反復で、共に旅立ちの時を迎えようとしています。

piccolo

緩和病棟その2



少し疲れました。今日は曇りですね。piccoloです。

入院の手続きも終わり、ホッとしたのも束の間、今日もお仕事でした。リーダー業務を行うも、回りの動きについて行けてない事に、自分の疲れを感じます。

仕事の帰りに母に頼まれていたスリッパや衣類を届けました。滞在時間10分でしたが、一応顔を出しました。2014年に病院にお見舞いに行った事を思い出します。これからどうなるのかが見えず、不安だった毎日が甦るのです。今、その戦いが幕を閉じようとしています。あと少し集中して行きたいと思っています。

2014年、母は抗ガン剤治療を行わない決意を固めていました。しかし知人の説得やドクターのアドバイスで科学治療を決めた母。今まさにその時に帰っているような気がするのです。ああ、あの時科学治療しなければこんなに苦しまなかったんじゃないのかな。そう考えるのです。ただ生かされただけなんじゃないか?ふと負の思考がよぎりますが、子供達の笑顔を見るとその生かされた期間で初孫の成長を見届け、二人目の孫に出会えんだと考えると、苦しんだ3年半ですが意味があったんではないかと思いたい。

帰り道に、そんな事を考えながら自転車を漕ぐワシなのです。

緩和病棟その1



2017年10月16日。雨です。piccoloです。母がホスピスに入院しました。珍しく休みもなしに動き続けています。ちょっと疲れた。

本日ワシの母が入院しました。そこで記録しておきたい事は介護タクシーの事でありまして、家から病院までの道のりを介護タクシーを使用しようと、初めてそのサービスを選んだのですが、まだまだの業界だと遺憾に感じたのです。

インターネットで片っ端から電話をしました。イメージでは、営業窓口があってそこから配車手配をするのかと思っていました。しかし実際は個人営業で、運転しながら客を得ると言うスタンス。電話をかけると何分後に掛け直すと言われて電話を待つというもの。で、こちらの条件を伝えるとそれは出来ない、その日はダメ、日時は良いけど患者を抱えて階段は降りられないなど、意外に条件に合う業者が見つかりませんでした。

家の近くに、条件の合う業者さんが見つかりました。

ワシの条件は

1)我が家は団地の二階で、そこから患者を抱えて階段を降りてくれるか?

2)車椅子はレンタルしているか?

3)病院の外ではなく病棟まで来てくれるのか?

4)ワシはタクシーに同乗せずに現地集合出来るか?(帰りの足がないので、自転車で現地まで行きたかった)

の四つ。

この条件を満たしてくれたのが今回お願いした○○○と言う介護タクシー業者。朝早い時間はなかなか見つからなかったのですが、9時ちょうどには難しいが、10分ほどすぎても良いならば伺えるとの事で依頼しました。そして当日時間通りに来てくれました。母は自分で階段ぐらい降りられると気丈です。ゆっくり階段を降りる母は、階段の下の車椅子に乗る事が出来ました。車椅子をバンの中に乗せ、いざ出発しようとすると…
ウイウイウイ…
ウイウイウイ…
エンジンがかかりません。ドライバーは「あれあれ?」と、1mmも焦りを隠さずに不安を露わにしています。何度も何度もエンジンをかけますが、シーンと静まり返った車内は、以後覚醒する事はありませんでした。おそらく階段を自力で降りたせいでしょう。母の血中酸素濃度が下がったのだと思います。「耳鳴りがする。高山病にかかったようだ」と訴える母。ドライバーはJAFへの連絡で忙しそうです。外は大雨、静まり返った車内にはワシと母が置き去り。10分、20分と時間だけが過ぎていきます。痺れを切らせてワシが外に出て「拉致があかないので他のタクシーを拾おうかと思うが、こう言う時には代替えの予備はあるか」そう確認しました。すぐに仲間のタクシーを呼んでくれましたが、なんとなく腑に落ちません。代替え車が来たのは、約束の時間を30分以上過ぎていました。当然入院予約時間を過ぎる計算になります。もう笑い話ですが、これからホスピスに入院する患者を車内に置き去り、具合が悪くなったと言っても「大丈夫か?」の声かけもなし。客の心配よりも、自分の車を最優先に心配する。滅多に起こらない事態なのでしょうが、この業界大丈夫か?と思いました。しかし考え方を変えれば、子供が成人しないうちにワシが定年を迎えます。まだまだ働かなくてはならないでしょう。その時に介護施設で働く自分の姿を想像出来ないでいます。しかしこう言う仕事もあるなと、そう遠くない未来を思う自分がいるのです。ワシならばもう少しマシな介助が可能で、ある程度老人介護に慣れている。あとは運転が下手で方向音痴である事をなんとかすればこの仕事行けるかもと考えるのでした。その時までにAIが発達している事を祈る。

代替えの業者の方が親切な人で、とても安心して病院まで来る事が出来ました。それは唯一良かった事。こんなトラブルが無ければ、この業界に落胆しなかったのでしょうが、出会い頭のこの件に、介助タクシーに不安を感じるのでした。

母は生きて帰ることのないこの道を、最悪のサービスで走り抜けるのでした。遠くにドナドナが聴こえるようです。

piccolo

旅立ちが近づいている


写真はイメージです。

余後数ヶ月です。piccoloです。

2017年10月16日に、母が緩和病棟へ入院します。9月29日の訪問看護で、かなり悪い状態です。急変も覚悟した方が良いと言われました。立ち上がっただけでサーチレーションが90%以下に下がる、外からは見えないだけで痛みは相当酷いだろうと。それを聞いたのは嫁でありまして、すぐにでも緩和病棟を探さないととアドバイスを受け、仕事の兼ね合いと緩和病棟の予定日を照らし合せて、最短の面談日を見つけられたのが10月13日でした。登録しておいて空きを待つのだと聞かされていたので、せめてその順番を決めるだけでも。しかし間に合うのか?それまでに在宅で耐えられる痛みは襲ってこないのか?内臓は破裂しないのか?後ろから急かされる不安との戦いの数週間でした。

実は訪問医療と訪問看護が決まった時に、安堵した自分がいました。何かあっても24時間いつでも連絡が出来る。容態が変わったら入院することが出来る。吸引などの医療行為を行ってもらえる。そんな心の油断が、母の病状に無関心になっていたのかもしれません。確かにお腹の張りは凄かったですが、訪問医には特に何も言われなかった為、看護師に言われた母の状態は寝耳に水でした。6月に緩和病棟を探しておいた方が良いと宿題を出されていましたが、訪問医療が開始するまでの時間に疲れてしまっていました。緩和病棟を探すことを躊躇したのです。母がこの状態になり、「旅立ちが近い」と言われてから必死に病棟を探すのでした。

一つの病院に絞るべきなのか、何個か掛け持つのが良いのか、そんな所から悩み始め、取り敢えず一つの病棟に照準を絞りアタックしたのが10月の頭。その面接日が10月の13日であったのです。その間にも、いくつかの病棟に問い合わせ、面談日を設定しました。

【差額ベット代】

自分の経済力からこれは大きな問題となりました。無料の部屋に空きが無いことは、容易に想像出来ます。1日8千円ならばなんとかなると思っていた自分は、ベット差額に保険がきかない事を知りませんでした。自分の愚かさを呪い、藁をも掴む思いで訪問医に相談したのです。

Dr.は、今日明日に急変するとは思えないが、余後を教えて欲しいと言うならば、長くて3ヶ月ではないかと言われました。そこでインフォームドコンセントを求めたワシが聞いたのは、紛れもなく末期癌患者の状態だったのです。

1)一番懸念されるのは腸閉塞の再発。
お腹の具合と、腸に再び現れた癌により腸閉塞を起こすことが今一番恐ろしいことなので、お通じが出なかったらすぐに教えて欲しい。

2)癌性腹膜炎
日大でも説明されたと思うが、腸から浸潤した癌は腹膜に転移して腹膜炎を起こしている。最近の画像でもそれを見受けられた。

3)肝臓、肺に転移
抗がん剤でなくなっていた転移した癌も、最近の画像から確認出来ている。

4)溜まった腹水
検査をしていないので一概に言えないが、お腹の張りを見ると腹水が溜まり始めて他の臓器を圧迫している。

5)痛み
骨に転移した痛みではないと思うが、おそらく臓器を圧迫しての痛みでしょう。看護師からも、我慢強い人なので本来なら相当の痛みのはずと指摘される。

10月の頭に、そんなやりとりを受けて情報提供書を作成してもらいました。三つの病院に問い合わせをして、二つの病院に面接のアポイントを取りました。その最初の面接で、母の状態を洗いざらい説明したのですが、訪問医にアドバイスを受けた一般病棟への入院は、柔らかく拒否されたのです。強引なやり方ではあるが、何か急変した時は救急搬送してくる方法もあると聞かされました。一番最善の方法は、ベット差額が無料の部屋が空くまでは、有料の部屋に入院して無料の部屋を待つと言う物でした。しかし悲しいかな、その経済力は自分にはありません。1ヶ月無料部屋が空かなければ、30万円近いお金がかかると言う事です。この金額が高いのか安いのかは、それぞれの経済力なのでしょうが、自分の力では正直厳しい額でした。面接では何度も失礼な質問をしたと思います。「だいたい無料の部屋が空くのはどれくらいなのか?」それに尽きるのです。当然病院側は、人の命の期限は測れないために、明日なのか何ヶ月も先なのかは言えない。と言う返事。よく解ります。この人の命はあと2日と分かっていれば即答出来ますが、命の期限は誰にも分からないのです。勝手なワシ、なんて失礼な事を言っているんだと自身を呪います。その旨をお詫びし、病院を後にしました。

その日10月13日には、訪問入浴の契約の日でもありました。1ヶ月以上風呂にもシャワーにも入れていない母の衛生面を考えての事でした。認知症状の出始めた母は、立ち上がるだけでサーチレーションが90%以下に下がると言うのに、自分では入れていると言い張ります。勿論そんな事実はありません。本気で入浴出来ていると思い込んでいました。「ああ…認知だ。」経験上そう思いました。これは無理矢理にでも入ってもらわないといけないレベルだと思ったワシは、嫁のアドバイスもあり、ケアマネに相談したのでした。無理矢理に入浴介助を行うことは出来ないと思うで、訪問入浴を入れてみましょうかと言うことだった。それでも入るのだろうか。正直辛いのであれば入浴なんてと言う気持ちもありました。しかし、ホームレスさながらの匂いが部屋に充満した環境が、健全である訳がありません。そこでケアマネに頼った結果が訪問入浴だったのです。

緩和病棟の面接から帰ってくると、訪問看護を受けている母の姿がありました。バイタルチェックなど、いつもと変わらないサービスを受けている母を眺めながら面接の状況を嫁に共有します。その最中、お風呂に入ると言う母の声を聞き、急いで湯を沸かすのでした。何が切っ掛けなのか解りませんが、それまで頑なに拒否をしていた入浴介助をすんなりと受け入れたのでした。狐につままれる。そんな気持ちを抱きながら訪問入浴の契約を待ったのです。

その契約の途中に信じられない事が起きました。面接をした病棟から、審査の結果、今決断してくれたら無料部屋に受け入れる事が出来ると言う連絡を受けたのです。さっきまで失礼な質問をぶつけていたワシの家族を、最優先に考えてくれていたことになります。しかし決めるのはワシではなく母です。即答出来ずに電話を切りました。その場には訪問入浴の相談員の方、ケアマネも同席していました。入浴はすでに数日後からサービスを始めると話し合ったばかりで、今起きている事を理解できないでいました。兎に角時間が欲しい。そう思ったワシは、返答を3日後にすると病院に伝えたのです。何よりも姨捨山に母を捨てると言う気持ちが、一瞬判断を濁らせたのでした。その夜にケアマネから連絡があり、無料部屋がこんなに短時間で決まる事はそうある事ではない。決断を早めるべきであると背中を押されました。直ぐに母にその旨を伝えると、「あなた達に迷惑をかけたくない。その線で話を進めて欲しい」と言われ、折り返し病棟に入院の意思を伝えたのです。

タイミング…

その何物でもないと、限りのある命を思うのでした。こうして母の終の住処が決まりました。ホスピスと言う場所が、最善の旅立ちの場所であるとは思いませんが、今の自分と家族には、在宅で看取る余裕はありません。しばらく仕事を休む選択もあるでしょう。しかし幼い子を二人抱え、親を介護すると言うことが許されるはずないと言う気持ちが今回の選択をさせました。選択したのは母ですが、そう誘導したのは紛れもなくワシでありまして、不本意ではあるがその選択をしてくれた事に素直に感謝するのです。

10月16日に母は入院します。最後の時がやって来ました。悲しいとか、悔しいとか、負の気持ちはありません。ただただ苦しまずに逝って欲しいと願うワシがいるのです。

piccolo

訪問医療



整いました。piccoloです。

お陰様で、先月末に母は74歳の誕生日を迎えられました。誕生日までもたないかもと思っていた体調は、一応回復してる印象を受けます。高カロリー飲料の効能か、孫の笑顔か、少し元気になったようです。

先日「ブログをみたよ。訪問医療医を紹介しようか?」と投げかけてくれた人がいました。今の職場で、最初の年にお世話になった看護師さんでした。どうしたら良いのか全く先が見えない状態でしたので、渡りに船とお願いすることにしました。10年という時を経て、こうして医療福祉の目線で手を差し伸べてくれる人がいる事に感謝しかありません。母の状態を病院に掛け合ってくれ、今現在訪問医療のサービスを受ける事が出来ています。

一緒に働いている時は、重度の認知症利用者から暴言暴力を受け、「過鎮静にしてやろうか!」と、冗談を言える人でした。今の時代なら、サービス提供責任者や施設長に密告される事も考えられます。そう言ったブラックユーモアの境界線が、昨今かなり厳しくなって来ています。それがまだ緩い頃、共犯意識を共有出来る凄腕の看護師さんでした。現場では時に雑であっても、こうして困った人が居れば手を差し伸べてくれる。【福祉】とはなんぞやと、改めて思うのです。綺麗事ばかり並べても、いざとなったら自分は汚れない的な人が多い中、たかが個人のブログを見て手を差し伸べてくれた事に意識の高さを感じます。そして、改めて自分の意識の低さを呪います。もはや福祉の世界に属してはいけないとさえ感じるのです。そんなワシが、この様なサービスを受けられる事に日本中の皆様に感謝いたします。

4月28日に第一回目の往診が行われました。食べられない原因を探るべく、CT検査を受ける事になりました。これは家の近くの病院を探してくれました。クリニックの相談員さんがよくやってくれる方で、こうした手配を引き受けて下さるのです。同じ地域の訪問看護の手配もしてくれました。往診のサービスを受ける様になって、芋づる式と言ってはなんですが、全てが絡み合う様に上手く回り出しています。

今年の頭、年末から引いていた風邪のせいで咳が何カ月も止まりませんでした。次第に食欲が低下し、食べられない日が多くなりました。そして3月後半から全く食べられなくなり、いよいよ旅立ちの時が近いと思い今に至ります。身の回りの事は自立して出来ていましたが、今はやっとトイレに行けるぐらいの体力しかない様です。排泄の失敗も多くなり、そろそろ失禁パンツや尿取りパットの形状を検討したい所ですが、リハパンには拒否があり、パットもおそらく軽失禁の物しか受け付けないと思われます。どうしてこう頑固なのだろう?結局失禁した衣類を家族が洗う羽目になるのに、格好つけたって格好つかないのに。まるで綺麗に化粧はしていても、下半身丸出しで町を歩く老女の如く自分の恥部を隠しきれていない母。もう全てを投げ出してもいい頃だと思うのに。そんな葛藤の毎日でしたが、訪問看護が入る事で大分緩和されそうです。バイタルチェックはもちろん足浴や清拭、入浴介助のサービスも受けられるというのです。まさに渡りに船。看護師さんからのアドバイスならば、オムツ類の相談にも耳を貸してくれることに期待しています。

2017年の初夏に、訪問医療を月二回。訪問看護を週一回の割合で受ける事になりました。更新したデータが、クラウド上で書き換えられるように、数本の糸が1つに絡み合う事を実感しています。ターミナルの準備は整いました。あと何カ月生きられるか分かりませんが、悔いのない旅立ちをして欲しいと願っています。

改めて手を差し伸べてくれた看護師のKさんに、心から感謝します。

piccolo

テルミールと言う高カロリー飲料



経験値です。piccoloです。

母が食べ物を口にしなくなって2週間ほど経過した頃、職場の利用者がこの飲み物で2年ぐらい生き抜いた事を思い出しました。

https://www.e-terumo.jp/テルミールミニとテルミールミニα/product/0/22/?cat=100001001&swrd=

テルミールと言う高カロリー飲料です。まさにこの詰め合わせセットを定期的に注文していたのでした。まさか自分の母にこれを飲ませる事になるとはその時は思いませんでしたが、その経験がヒントになり、現在は少し元気になっています。「薬だと思って1日1本でいいから飲んでみて」そう義務化して3日ほどした所で宅配ピザが食べたいと言い出しました。Mサイズのピザを3分の2ぐらいペロッと平らげました。それから約2週間テルミールとウイダーinゼリーを飲み続け、どうにか生きながらえています。

最初は義務として鼻をつまんで、呼吸を止めて飲んでいましたが、今は色んな味があるのね。抹茶が美味しかったわと、味も楽しんでいる様子。どうにか栄養失調で死ぬ事はしばらく無さそうです。ただ、根本の食欲低下の原因を探りたいと言うのが本音でありまして、消化器系や肺に癌が転移しているのか否か。その場合余命はどれくらいなのか。今は創造するしかありません。どうにか医療の力を借りられる態勢を整えておきたいのが本音なのですが、今のところどうにも進めないでいます。あと少ししたら、毅然と病院へ行って検査を受けさせたいと思っています。今まで抗がん剤治療をしていた病院が良いのか、近所の開業医の先生を頼れば良いのか、何が最善か分かりませんが、我が子と奥さんが帰宅した今、子育てが大変になる前に準備をしたいと思うのです。

何が最善なのか、それを決断出来なくなった母の代わりにワシが見極めなくてはならないのでしょう。まずは介護認定を取りたいと思っています。その同意は先日とったのですが、きっとその場になったら「そんな約束してないわよ」と言うのは容易く創造出来るのです。

一体何を優先させるべきなのか分からないまま時は過ぎていくのでした。

piccolo

抗がん剤をやめた日



新しい命の誕生のあとは…
piccoloです。

第二子が誕生して2週間が経ちました。その成長とは裏腹に、ワシのおかんは衰弱し始めています。去年の暮れに風邪をひき、なかなか咳が止まりませんでした。現在咳は少し落ち着きましたが、全く食事がとれません。1週間近く食事らしい食事を取れていません。転移した癌が消化器系を蝕んでいると思われ、そこから食欲低下に繋がっているのではないかと想像しています。昨年2016年の10月に、突如として抗がん剤治療をボイコットしてしまった母。その影響がここに来て症状として現れたのだと思われます。

抗がん剤をやめた理由…
副作用が辛かったようです。分かっていた事ですが、完治はしないと言われていて、その苦しみに耐える理由はあるのか?そう思ったに違いありません。その都度薬を変えて来ましたが、3種類のうちの最後の種類を始めた事で嘔吐するようになりました。手の痺れに加えて吐き気も催すようになり、それが自分の限界だと悟ったんだと思います。

完全にバックレでした。ある日突然無断で治療を休んだのでした。「あれ、病院は?」そう言うと、「もう治療やめたの」シレッと驚きの返答がありました。自分の事なので、やめるのは勝手ですが、1人で生活している訳ではありません。ワシや嫁、孫もいる空間で、堂々とターミナル宣言されたワシは、その気持ちを受容すると共に新たな決意をしなければなりませんでした。このまま抗がん剤治療を続けていれば、衰弱した時にそのまま治療していた病院に入院出来たでしょう。その死へのルーティンを拒まれた事で、新たな対策を考えねばならなかったのです。

2016年の10月に抗がん剤治療をやめてから、およそ半年が経過しました。2014年の6月に、全身に転移してるとインフォームドコンセントを受け、抗がん剤治療をしなければ半年。治療をして12ヶ月から24ヶ月と余命の宣告を受けました。とっくに余命は過ぎていますが、抗がん剤治療を始めてから副作用は強かったものの、全身に転移した癌は影も形もなくなっていたそうです。しかし命を伸ばして苦しむよりも、人間らしく生きる事を選択した母は、この時の恐怖を分かっていたつもりでも、実際には物凄く恐ろしかったのでしょう。毎日何かに怯えているようです。

先日自転車で買い物に出かけた母は、目眩と足の麻痺を感じ、買い物を断念したと言うエピソードがありました。家から数10メートルの所で引き返したそうですが、家の前で動けなくなってしまったのだとか。その羞恥心から1人で外出する事もなくなると思われ、悪循環は続く気がします。目眩や足の麻痺する感覚は、食事をしてない事から来ると思います。しかし母は、癌が進行してるから目眩がするんだ。足が動かないんだと人の話に耳を傾けません。むしろ癌が進行して出て来ている症状は、食欲低下だと思われるのです。「先ずは栄養をとって体力をつけよう。」そう助言しても聞く耳を持たないのです。piccolo家の悪しき因縁は、この無駄な頑固さです。祖父から受け継がれているであろう頑なな意地。歳をとればとるほどに強くなって行くようです。

今月の30日に74歳になる母。もしかすると誕生日を迎えられないかもしれません。どうにか病院へ連れ出し、点滴治療で体力を回復させて欲しいのですが、彼女の頭には病院イコール癌の治療と、偏った考えしか持っておらず、自分一人の問題として頑なに通院を拒否します。「冷静に」と自分に言い聞かせるワシですが、幼児退行した母をどうしても軽蔑してしまいます。ワシは母に、中途半端はするなと、時に暴力までふるわれて物事をやり通す事をすり込まれて来たのに、抗がん剤治療は中途半端にやめてしまうんだと、憤りさえ覚えました。以前母に「中途半端はダメだと俺に教えて来たよね?あなたがしてる事は中途半端な事だよ。やめるなら、しっかりとやめる意思を先生に伝えなくちゃダメなんじゃないかな?」と話た事がありました。しかしバツが悪くなるとシレッと自分の部屋に消えて行くのです。時に駄々をこねる子供の様でもあり、女手一つでワシを育ててくれた強い外見とは裏腹に、内見はガラスの様に脆かったのでした。



ここ数週間でかなり痩せました。写真は去年夏の物です。さらに一回り小さくなった気がします。介護施設で働いているワシは、老衰でご逝去する方を何十人も見て来ました。決まって食事が取れなくなります。中には何も食べずに1ヶ月以上生きる人もいましたが、大抵数週間で体力が尽きます。今まさに、自分の肉親がその状態に陥り、いよいよラストステージに入ったのだと複雑な思いを噛み締めるのです。

生と死。喜びと悲しみ。いつも同じ年にやって来る。これも何かの因縁なのであろう。

piccolo

入院から1年

命の期限が過ぎました。piccoloです。



去年の今日、「お母様が入院されました。」と、病院から連絡貰った日だ。病名は、腸閉塞。そこまでしか情報はなく、夜勤に出発したんだ。明けで病院に行くと、母は眠っていて、しばらくして目覚めると、「来てくれたんだ。」そう言って体を起こした。母の口から大腸に癌があることから腸閉塞を起こしていることを聞いた。部位は盲腸。ネットで調べると、盲腸癌の殆どが自覚症状がなく、腸閉塞などの症状が出た時には全身に転移していることが殆どであると書いてあった。あの日の鬱蒼とした気持ちを思い出す。病院と言う空間で、死の病を宣告されるのが、どれだけ辛いのかを想像すると、複雑な気持ちだったのだ。我が子の笑顔が切なかった。

子供が生まれて、1番喜んだのはうちの母かもしれない。皆が我が子の誕生を祝福してくれたが、この子の誕生を待っていたのは、母かもしれない。もしかしたら、子供の誕生で、親子の確執が修復出来るかもしれない。そうも思っていた。しかし…
死の病に犯されていたのだった。

その日から1年経った。徐々に衰弱はしているが、至って元気だ。全ては孫の存在が彼女に生きる勇気を与えている。去年を振り返り、改めて我が子の存在の大きさに頭が下がる。

願うは苦しまずに逝って欲しい事。ワシの願いはそこに尽きるのである。

piccolo

過去日記
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余命



命の期限が近づいて来ました。piccoloです。

母が病に倒れて、間も無く1年が経とうとしています。時の流れは無常にも早く、医者から宣告されたその時が迫っているのです。

昨日、俳優の今井雅之さんが母と同じ病でご逝去されました。母と同じ大腸がんで、母と同じステージ4で、母と同じく癌の部分を切り裂いた手術をし、母と同じく抗がん剤治療をしていた、あの今井雅之さんが昨晩亡くなられました。

間も無く母の命の期限が終わります。今井雅之さんのニュースは、とてもショックでしたが、母は元気です。痩せていた体も、それなりにふくよかになり、抗がん剤治療の副作用に苦しみながらも、骨に転移したような痛みの訴えはありません。今井雅之さんが亡くなる前の日に、母の抗がん剤治療でした。その数日前に検査をした結果が出る日でもありました。癌は小さくなっていると言う結果でした。肺に転移した数個の癌はそのままあるものの、大きくもなっていないし、他の転移は見受けられていないそうです。その結果をとても嬉しそうに受け取っていた母は、一転して今日の様子は真逆でした。想像するに、同じ病の有名人が朽ち果てる姿に死の恐怖を感じたのだと思います。

経過は良好なのにも関わらず、情報に怯える母。他人事で申し訳ないのですが、もっとおおらかに生きて欲しいと思います。ワシの血縁関係と、強制的に共に暮らさなくてはならない奥さんには申し訳ないことなのですが、確実に死に近づいているこの命のわがままを、どうか見逃してやって欲しいと祈るのです。

母の経過が良い事の理由に、孫の存在があるでしょう。孫が生きる希望を与えてくれる反面、孫の成長を見届けられない虚しさに憤っている様子です。

何はともあれ、母は元気です。孫が彼女に癒しと笑いを与えてくれています。この小さな命が、人の心を支えてくれている。我が子にも、奥さんにも、一生頭が上がらない気持ちです。

奥さんを大事に。
我が子を大事に。
母を大事に。

今は、それだけを祈るのです。余命と言う名の命の期限。母は、その期限を糞食らえとばかりにパンクに生きています。その中に、不安と希望の狭間に揺れ動いていますが、孫の成長を見届けたいと言う願いは、母に生きる希望を与えています。世代を超えた繋がりを、唸り声を上げながら盲信するのでした。

piccolo

治療と引っ越し




取り敢えず安堵。piccoioです。

前回の受診で、母は抗がん剤治療を行わない旨を決めていました。先生は、在宅訪問してくれる医者を探せと宿題を出して納得してくれました。ワシは、母の考えを尊重しようと決めました。そしてこの日、母の考えに変化が現れていました。先生の「どうですか、地元のクリニカルは診てくれそうですか?」の質問に、母は開口一番「私抗がん剤治療します」と言いました。ここ数週間で、母に変化があった様です。

入院する前に通っていた泌尿器科の先生のインフォームドコンセントが良かった様です。色々なリスクを説明され、なぜ死に急ぐ様なことをするのかと言われたらしく、抗がん剤治療に対するイメージの相違を感じ取ったのだと思います。何はともあれ、この日から母が明るくなったことは間違いありません。何か吹っ切れたと言う感じがしました。同じ事を大学病院でも説明されていたとは思いますが、大きな病院のシステムの中の説明と、地域に密着した診療所の説明では、患者の安心感が違うんだろうと想像します。もう一つ想像するのは、抗がん剤治療をする大義が欲しかったのかもしれないと言うこと。綺麗に散りたかったけど、色々な生に対する欲求が出たのではないかと言うことです。その理由に孫の存在があるかもしれません。とにかく孫を溺愛する姿は、喜びで溢れているのです。孫が泣けば全身で心配し、孫が笑えば母も腹から笑うのです。この小さな命が、バーバを大きく支えていることに、繋がることの意味の深さを感じるのです。

8月早々に1度入院をし、点滴をするポートを埋め込みます。5日ほどで退院出来る事も、予想外に嬉しかった様です。あとは、2週間おきに通院して抗がん剤治療を続けて行きます。母は、その治療はいつまで続けるのかと質問しました。そのゴールは、癌がなくなるまでと説明され、当たり前の事なのですが、抗がん剤治療の意味を理解した様でした。我々には、そのゴール地点に立つことは難しいのですが、治療で少し延命出来る。きっと生かされる事が嫌だったのだと思いますが、時間が母に考えを変えさせたのだと思います。生かされるのではなく、生きるのだと。その時間で色々な欲求を満たそうと、改めてこれからを親子で見つめて来ました。

引越しに難色を示していた母ですが、今日の受診で前向きになってくれました。何を捨て、何を用意し、最低限この荷物だけは持って行くと、引っ越しのシュミレーションをしています。家の間取りを質問して来て、変な間取りを選んでないかと偉そうです。50平米あると言うと、そんなに広いのか?と。ワシが説明して来たことは、きっと絶望に押し潰されて、耳に入って来なかったのだと思います。同居はしたいけど、まるで自由のない飼い殺しの生活が始まると捉えていたのかもしれません。きっと母の中でドナドナが鳴っていのでしょう。

死に向かっているのに、安堵している親子がここに居ます。何を納得し、何を選択するか。その整理をつけることが、この病気の考え方なのだと思います。突然入院したと連絡が来た日から、かなり時間が経過しました。最初は病気になった事を頭では解っていたつもりだったけど、納得はしていなかったのでしょう。まるで悪天候の様にジメジメ考えて、出口のないトンネルに迷い込んだかのようでした。しかしその出口が見えた気がしたのです。決して良い出口ではないかもしれませんが、それを納得する事が大きいのです。

梅雨が明け、暑い日が続きます。まるで我々の心の様に、あのジメジメした日に別れを告げます。夏を楽しもう。冬を超えよう。そして春が来る。その中に生を探そう。奥さんに、我が子に、親戚に、友人に、その繋がり全てに感謝します。


piccoio

母の決意

退院して一週間、受診して来ました。母の決意を想像はしていましたが、先生に改めて抗がん剤治療は行いたくない旨を語っていました。



余命は半年。平均して8ヶ月と言われましたが、今年もつかは分かりません。苦しい治療を一切合切拒否をして、人間らしく死にたいとはいかにも母らしいと感じます。ワシも生かされる母の姿は見たくありません。彼女がそう決めたのであるならば、その意思を尊重したいと思っています。

問題は、今後衰弱した時に在宅治療をしてくれるDr.がいるかどうか。まずこの連携を取るのが絶対条件であります。やはり在宅治療は無理だとなった時に、病院に来ても受け入れられない事が予想出来ます。今のうちにその考えを受け入れ、フォローしてくれる先生を探すのが、担当医からの宿題でした。

正直ここ一ヶ月母と過ごして、改めて真逆のキャラクターを感じました。のんびりマイペースなワシとは逆に、なんでも段取りを組んで、せかせかと物事を運ぶ母。実家に泊まり込んだ数日が、ちょっとストレスでありました。何をするのにも母からあーしろ、こーしろ、と指示があるのです。自分の手が届かないから手を差し伸べるのは苦ではありませんが、自分の日常を否定されるのは苦痛以外の何物でもありません。今後同居を提案して行きますが、上手くやれるか不安であると言う、なんともお粗末な考えのワシ。自分の産みの親、育ての親の命の期限が見えているにも関わらず自分のバランスを考える親不孝なワシ。受診を終え、母の決意を目の当たりし、怒涛の一ヶ月を振り返りながら、これから始まる新たな闘病生活に睨みをきかせるのでした。

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